昭和45年3月18日 月例祭
真にありがたしと思う心、すぐにみかげの始め。真にありがたいと思う心すぐにみかげの始めなりと。真に有り難いと言うことは本当に有り難いと分かると言う事だと思うんです、ね、本当のその有り難さが分かるということはそれは一時にときで分かるとは思いません。お願いをする、おかげを頂く、あー有り難いと、なるほどそれもやっぱり真に有り難いけれども、真に有り難いというのはそんなものじゃないと、まあ、今日はそういう意味においての有り難いと言うこと、ね。
お参りをしてお話を頂く、あーい頂いても有り難いお話という程度ではなくてですたい、真に有り難いと、そういう有り難いと言うものが分かる信心に一つならせて頂かなきゃいけん、信心が有り難いと分かる信心、みなさん、私も有り難いと思うとるからこそこげんしてお月並祭でも参ってきてるんだと言えばそれまでだけれども、そういう意味じゃない、もっと、もっとなんです。ですから、本当のよいものでもね、よいものと分からない人がたくさんおります。ね、または、よくもないことをよいと思う人もあります。ね。
ですから、本当なことが本当に分かると言う事です、ね。
先ほど、お祭りに出てくる前に秋永先生が、先生今度庭は素晴らしいですねと、こんなにたくさんぐりるぐっと庭ですからここは、たくさん良い庭が出来ましたけれども、もう今度の庭が一番でしょうと、第一力強いです。昨日晩から一昨日、二日間で茶室の前の茶庭がでけました。
秋永先生見ていわくそうです、力強い、素晴らしいと、まあ、もうちょっとまあ、あー云う庭はどこんでんありますまいと云うて、いわば絶賛しておられるわけです、まだ出来たばかりで、いうなら泥だらけの、まだ植木も、ただ小さい植木が植わっておるだけで、けれども、もうその石組みそのもの、そのものが素晴らしい、力強いんだと、ね、私もそう思います、素晴らしい庭だと思います。日には4回も5回も見に行きます。茶室の前、あの障子ごしにながめます、外へ出てながめると、またここを下がるとまた見に行く、見るたんびにいいです。
茶室から座ってじっとながめておると、もう本当に、やはり今日は一つ茶室にヒレも入れないかと、いいたいようにいいです、まあ、今晩あたりは( ? )今晩泊まられる方は迷惑されることでしょう、( ? )あそこでいっぺんどりお茶をあげて庭を見ておられませんから、けれどもそれを分からない人はもう親先生からかったらかなわんちいうて逃げ出すです。ね。
けれども、分かる人は喜んでみるでしょう。勿論今までありました庭が、高山さんが作っておられる、これも良かったです、ね、ですから、もう、皆さんもご承知の、それこそ日本一の庭作りと言われる梅里先生が、もういっぺん私はこちらへ来て、あの茶室の前の茶庭だけは私がやらせて頂こうと言うて頂いておったけれども、実を言うたら、どうぞ、どうぞとはあんまり思わなかったんです、なぜって、今まで高山さんが作っておられるのでも結構楽しめたからなんです。ね。
ところが、この前の13日、今度の13日会、2回に渡って、皆さんが奉仕された時に高山さんの息子さんが今おかげを頂いておりますが、あれを全部水が、水のはけが悪かったかなんかいうちから、折角のその手洗い彫り上げてですね、かっこを違うようにしたんです。もう私はそれを見てガッカリしましてね、もう見たくないから障子を締め切ってから開けよごつもないです。
不思議なもんですよ、見たくもない、それを私共がすこーしその、例えて言うなら美の追求とでも申しましょうかね、良いものが良いものとして分かる目を頂いてきたからだとこう思います。ですから、もし、なら全然分からない人がです、見たら、先生はそげーんいわなさらんでだいたいそげん、水も落ちよるし、手洗いもちゃんと、石はそのままだから、少し彫り上げて大きくなっただけじゃから、かえってよかごたると言う人があるかも知れません、けれども、本当にその、(笑い)、分からない人が、分からない人は良かってっちゃ、悪かったっちゃ同じ事と言うことです。
けれども、少し分かるならです、もうその( ? )見たら、いわば、もう以下のものは見られないと、ね。
昨日、梅里先生が見えられたときに、丁度前の日のお土産が託けておりましたから、絵を、短冊に絵を書いて、あの、お土産に持ってきて下さった。4月と裏に書いてあります。4月の絵を書いてある訳ですね。もう、素晴らしい絵なんです。ね、立ち会うておる、その中に山桜がこう、の絵が書いてあるんです、見事な絵なんです、で私が久富さんにちょいとこげんなんよかお土産を頂いたっち、( ? )(笑い)、お茶を頂きながら、( ? )見せたら、短冊を横にみござるですもん、(笑い)、これはだいたい何の絵ですかげな、(笑い)、それはあんたこげんして見らなこてち言うて、そしたらその桜の花が白点、点じゃけん、この白数の点、点ななんですかげな、もう私( ? )、(笑い)、もう折角こんな素晴らしか絵を横んどん見たごたる風でごれじゃ分からん、見方が分からんけんそんな風です。でみなさんも笑いなさりよるばってんですたい、合楽の信心をごげんどんして見ござる私たちもずいぶんありわせんと思うです。
はあーここ、合楽の信心はこれだと思う、点、点の打ってあるところでんなんでん、この白かつはなんですかっちいうごたるふうなもんじゃなかろうかと私は思うんです。分からにゃんそうです、だから、真に有り難い、本当に良いものが良いと分かるまでは時間がある。
けれどもですね、もうあんた馬鹿じゃなかろうか(笑い)、ところがその次、今度は上野さんのが親子づれでやってきましたもん、鳥栖の。私がまた見せたら、やっぱりおなじごと横に見よってんです、ほーこれはほんに良か絵ですが、だいたいこれは何の絵でしょうかげな、ほー馬鹿がやっぱどこんでん馬鹿が同じおんのって私いいました。もうその時は梅里先生がおりなさったけん良かったですけどね、(笑い)、こげんして、あーこげんして見りゃほんにそげん言いなさる滝のごたるちうごたるな風です。(笑い)
だからですたい、合楽の信心でん、そげんなんふんどん見なさると、ほんなこてもう、あの、本当に相すまんことだとこう思うのですよ、ね、ですからね、やはりその、良い物が良い物として見える為にはやはり稽古がいるです、それまでに。
今日は、私は真に有り難いと思う心すぐにみかげの始めというのはです、金光様の御信心が真に有り難いものだなと分からせて頂くと言うことなんです。だから、やっぱり見やすいものとは思われませんのです。ね。真に有り難いと言うことになってきたらどういうことになるだろうか、皆さんの信心の態度が変わってくるです、みんな。ね、ただお願いをしておかげを頂いて有り難い、お話を頂きゃ、やっぱりきかんにゅかよかと、先生のいいなさることはもういつも同じことばかりと言う風に頂く人もあるかも分かりませんけれどもです、私が例えば、ここで日にち頂いておる御理解をです、何回も、何回もここから繰り返し繰り返しまたテープで皆さんが頂かれますから、聞かせていただいて、まあなんと素晴らしい有り難い御理解であろうかと私自身思います。ね。
真有り難いと、ね、分からなければ、いわゆる、真(しん)のおかげ、真(まこと)のおかげは受けられません、ね、なら、真のおかげと言うおかげははどういうおかげかと言うとです、ね、いつも私が申しますように、お互いが求めて求めてやまない幸福、ね、幸せ、私のような幸せなものがあるだろうかと言うほどしのおかげ、ね、時々はそげん思うたりするけど、それは時々です、ね、やっぱり、この世は苦の世である苦の世界であると、ね。
私は思うのに、本当にこの信心がこの有り難いと、例えば今朝の御理解の中にもこの和賀心と言うのが、自分の心の中になかなかこれが和賀心だろうかと思われるような心は頂けませんけれどもです、ね、和賀心におかげがあると仰せられるからその和賀心、和賀心と、和賀心を祈り思い続けるということ。ね。
それが、いわば、和賀心を求めていく、まあ姿勢だと言う風に申しましがです、本気で和賀心にならせて頂こうと、和賀心にちょっと心が向きますとね、そこから生まれてくる有り難いものがついて来るんです、いわゆる、体験なんです、だから、なお有り難い、有り難くならなければおられないのです。だから、なお和賀心にならなければおられんのです、だから、またより有り難い体験が伴うのです、だから、よりまた、より和賀心を求め続けなけらばおられません。というようにですね、真に有り難いというのはそういうことが分かると言う事なんです。ですから、ある程度の所が分かってどうどう回りをしておるということは全然有り難いということが分かっていないということです。ね。
だから、本当に和賀心にならせて頂く事を楽しみに信心すると、そこにはもう予期しないおかげが伴うておる。だから、なおまた和賀心を求めていかなきゃおれないのである。だから、またより今まで知らなかった世界が開けてくるのである、だから、またより和賀心を深く広く頂いていかなければおられんのである。それが、私は和賀心を追求していく者の姿勢であり、そういう楽しい信心、おかげが受けられるのが信心だと思う、ね、ところが、先生がもう口を開けば和賀心、さあ-和賀心時代、和賀心をの運動に参加せよと、いうふうに言われるけれどもです、ね、ただそれだけ自分達が分かっておるだけでは一つも楽しい事も有り難いおかげもそれじゃ伴わないのである。 と言うことを私は今朝の御理解に、あのくず湯の例をもって話させて頂いた。ね。
先日、昨日、一昨日、くず湯の美味しいのを頂いておりますから、あの、作りましょうかちいうたら、もう私はくず湯が好物大好物だと梅里氏は言われる、丁度その前の日にその有名な名物のくず湯を頂いておった、ですからそれを私は( ? )で、その熱い湯でコップに入れてこう、くず湯を作る訳ですけれども、どうもくず湯にならない、これは湯がちっと温かっじゃろうけんまたもってきてしたけれども、やっぱりいけない、そこでとうとかっての方へ持っていって、いわば、クラクラ炊きよるとを持ってやらせて頂いたらそれが本当のくず湯として、あのねばりのね、ショウガの入ったくず湯ですから、もうショウガの匂いがプンプンして美味しいくず湯がでけた、だから、くず湯そのものは同じでしょうが皆さん、ね、3べん間して、3べんながらおんなじものなんです、ただ、お湯の熱さ、かげんがちごうとったと言うことなんです、和賀心いいや、和賀心と言うけれどもです、その和賀心にもです、本当にたぎるような熱情と言うものがかけられて初めてくず湯の味と言うか和賀心の味わいというものが分かるのです。
だから、とてもとても、ならただじっと腕こまぬいてから和賀心、和賀心といておるだけではいけないということ、ね、それに熱情がかけられなければならないということ、ね、熱情をかけるとそこに生まれてくるその美味しさがです、ね、その有り難さがまた、その和賀心を追求していく、また、今まで知らなかった体験しなかったおかげがとものうてくる。だから、なお、自ずとね、信心が成長してとこういうことなんです。ね。
先ほど、前講にあの博道(ひろみち)さんが前講を勤めておりました。本当に変われば変わるもんだな、一つ( ? )変わると私は思うのです、ね。自分のような者がお道の教師にお取立てを頂くと思うただけです、これはじっとしちゃおられない事になってきた、これは本当に神様を頂かなければ神様が分からなければと、いわば、神様を本当に分からせてもらう、神様が本当に信じたいという一年が生まれてきた。そこからどうすれば神様が分からせていただけるかといろいろ工夫させて頂いて、丁度寒修行中でしたから寒修行のおかげを頂くと同時にお山に行って滝の水を頂きに行った、ね、それが満願になったら今度は断食を始めたと、丁度一週間断食をした、2、3日前、満願であった、今度の寒修行から、いわゆる、また断食の修行から、ね、決して金光様の御信心がそういう表行ということを尊しては致しませんけれどです、そげんなんとしてからでもです、神様が分かりたいと言うその熱情に、やはり神様もね、そう、例えばそういうその修行はするなと仰りながらもです、やはり神様とても嬉しかろうと思う。
そして、分からせられておる事はです、ね、願われて私が道の教師に志す事になったと今日は言うております。自分が、ね、どうにも出来んから金光様の先生になっとならにゃんというのではなくて、願われておったからそこにどうにも出来ないことになったのであり、願われておったからこそ取次ぎ者の、いわば、道の教師にでもならせて頂こうと言うおかげが頂けたのだと、いわば、願われての私です、ね。
信心のない一つの対話の中から、自分が頂いておる神様を表現しようとおもったけれども、ちょっと難しかった、そこで、まあ、止めましたけれどもです、私にはよーう分かる気が致します。もうその表現、もう素人じゃない、なるほど金光様の先生でも目指しただけに、その、5分か、10分のお話の中からです、はあーたった一月であんなにも変わるものかと私は思うた。問題は姿勢が違う、ね、どうならして神様が分かりたい、神様が信じたいというその熱情がですね、現在の博道君の信心をあのように育てて下さってあるんだと言う風に思います。ね。
信心のない人達がよくいうことです、信心しよって、例えばいろんなことが起こるとか起こらないと、例えば、それを末永さんは過去言われたと言うて、まあ、一口末永さんが言うたことをいっておりましたが、ね、本当の信心があっとるなら絶対そういうことはない、例えば事故といったような事でもですね、例えば交通事故といった、本当の信心に燃えておる時なら絶対にないです、これは私も確信します。ね、けれどもそこにはあったということは、なら合楽にでも椛目を通してずい分な事でございますからです、ね、それをいうと、例えば、なら御霊様をまた切って刻むような事になりますから言わんだけのこと。信心の熱情が、信念がです、本当にもう盛り盛りとして、例えば、今日私がいうておる真に有り難いと言う信心が分かっていきよる時なら絶対にそういうことのあるはずないです。
しかし、そこは生身をもっとる人間ですから、何処にスキがあるやら分からん、隙間からそういう、例えば事故といったようなものは起きてくる訳ですけれども、ね、そのおかげでというものが、また頂けるのが信心なのです、ね、例えばなら、末永さんあたりなんかが、今そういう絶対ということが言えれるほどしのことはそれだけの信心がでけておるからだと私は思います、ね、いわゆる、神様を信じて生きた印だと私は思います。ね。
ですからね、例えば、信心の程度の低い人、またはない人、または常識的に分かっておる人にはなかなかお話がしにくいもんです。
ちょうど、昨日、佐田さんがお導きして見えられた方、親子でお導きして見えた、丁度、私コタツの間におりましたから、あちらでお茶でもあげて、まあ、三人のお話を頂きよる所へ、ちょうど、お昼になったから、梅里先生も下がって見えられた、一緒にこう、お茶を頂きながら、ね、でも本当に、ここにお参りさせて頂くようになって、たった何回だけれども、このような勿体無いおかげを頂いておるという、それは、もう本当に素晴らしいおかげを受けて、昨日はお礼参拝なり、またこれからの信心のことについてなりでお参りなったんです。ね。
本当に、えー、苦しい時の神頼み的なとこから信心がはじめると話をしておられたのを横でその梅里先生が聞いておられてから言われるんです、まあ、こちらはなんというんでしょうかね、やはり、その名人忌日とでも申しましょうか、非常に、まあ、いうなら
、なんと言うんですかね、うん、精神科ですねいわゆる、あの方はなかなかの精神科だとこう申します、信心はない、信心はないけれどもいつも自分の心と言うものを見たり、見極めたり、また、修養が好きであると言ったような人を精神科と申しますね、そういう人達に限って神様はですね、拝まずとても神は守るというような、そういう思想を持っておられます、そういう人達はみんなそうです、だから、いわゆる、参ったら拝んだりするもんな、もう本当に間違っておるように思います。ね、だから、梅里先生が言われることが、そげん困った時参らんな、ちゃんと平穏無事でおる時に信心ちうものはするもんばのうちうてから教えなさるところじゃった、(笑い)。
それは、もう信心段々、それはそうどころじゃないけれどもです、所が、なかなか平穏無事の時には、なかなか参りもしませんし、神様のかの字も言いません、段々信心が手厚うなってくるとです、痛い痒いが治ったのが有り難いのではない、いつもまめなのが有り難いのぞと言うことが分かって、だから、より有り難い信心が出来る訳なんです。けれども、梅里先生が言われるのはです、そう、ね、あんたどんごつそげんしてから難儀な時に参って、おかげば頂くちうことじゃなくて、難儀じゃなか時に信心ちうものはするもんばのうちうた(笑い)。
そういいよりなさると、私は前で聞かせて頂きよったら、足でこうやって拝みよるところを頂いた。足で、次で手で拝む所を頂いた、頭で拝み、心で拝み、全身全霊で拝むのが信心じゃと頂きました、ね。
梅里先生がいうておられるのはどういうことかと言うとです、ね、もう、頭で例えば拝んでござる訳、だから拝まんけん神は守らんということになっとる訳です。金光様の御信心、いや、本当の信心と言うのはね、手で拝み、足で拝み、心で拝み、頭で拝み、全身全霊で拝むのが信心だと言う事なのです。ね。
勿論、足で拝むと言う事はやっぱりお参りをしてくるだと思いますよ、ね、手で拝むと言う事は御祈念をするということだと思いますよ。ね、御祈念をしなければおられないのである、願わなければおられん、すがらなければおられん、それがね、頭でも分かり、心でも分からせて頂いて、全身全霊を持って神様に向かうのが信心なのだと、だから、そんなこというたってとても梅里先生あたりは分かりゃせんから、私はそれをきいとっただけでしたけれど、ね。
信心とはそうなのです、ですから、その手で参り、足で参り、心で参り、頭で参ると言う事にならなければ信心にはなりませぬがです、今日私が申します、真に有り難いと言うことが分からなければそれが出来ません、ね、とても、とても、現在朝頂いておる御理解なんかはですね、もう本当に真に有り難いならもう、もういちんちだって聞き流すことは出来ませんです。ほんと。頂いた時にはもういっぺん頂いていかなければおられんのです、本当にしん、例えば今の合楽の御理解を、朝の御理解を頂いたらですね。
ですからね、先ほど秋永先生が言われるのじゃないけれども、ね、あの茶庭の、茶庭を見られて、ね、今度の庭が、小さい庭だけど、一番だと、とにかく第一力強いと、これはまだ他のバックの植木も育ってもおりませんし、まだした泥だらけですけれどもです、ね、その、その、石の組み方とでも申しましょうかね、本当に、そこにおって、本当に座ってながめたいほどしに、日に私くしが4回も5回も例えば、とにかくちょっと見に行きたいような庭である。
けれどもです、ね、例えば短冊ばこげん見らにゃんとばこげん見てから、これはなんじゃろうかというた人もあるのですから、それも、私は久富さんだけと思っておったら、そうじゃない、やっぱ来る人、来る人が、こげんしてから、ほぉーこれはなんじゃろうかっち、だから、本当に分かる者は少ないと言う事ですよ、いうなら。
だから信心もです、せめて合楽に御神縁を頂いておる人はです、金光、合楽の信心を通して金光様の信心がこのように素晴らしい、このように有り難い信心である事を、神様である事をです、分からせて頂かなければ、いわゆる、手の前、足の前と言う事になってこない訳です。ね。
ある程度のことが分かって、ただ信心をしておる、だからどうどう回りでした、いっつも前進しない、楽しみがないお参りをする、ね、ですから、ここんところがですね、もう、登っていくして、そのままにすと落ちていく人というその境と言う所にきがです、ね、本気で、例えば、和賀心という、和賀心なら和賀心をですよ、ね、頂いていくことが楽しみに和賀心に向かっての精進というものがです、ね、なされていくところ、ていう所からそこにもう知らなかった体験が伴うてくる、だから、またより和賀心を追求したい、もっと奥の和賀心が頂きたい、だから、もっと今まで知らなかった世界が開けてくる、だから、もっと深い和賀心を追求していくと言う生き方なのです、ね。
そう温いこともなかったけれどもです、お茶ども入れるとにはちょうどよいごたる熱いお湯だったけれどもです、さあー、それでは、くず湯は出来なかった、これは温かばのう、もうちった熱かっでちうたけれども、やっぱり出来なかった、そこで、( ? )を持って行ってクラクラたぎるとをかけさせて頂いて、初めて、ね、その美味しいくず湯が出来たようにです、信心もです、もう本当に、顔を見りゃ信心が足らん、信心が足らん、( ? )、もうちったがんばらにゃん、もう先生が言われることは同じことなんですよ、どがしこ育っても育ってもまだ足らん足らん、もう言われるとがっかりする、こがしこ一生懸命なっとるところで、さぁーけれども、それが親心、這えば立てである、立てば歩めである、ね、そこんところをです、私共が一つ分からせて頂いてですね、本当におかげを受けられんのは、これはまだ私の信心が足りぬのだからと、そこに熱意をかけていかにゃいけん、それでもいけんなら、もうちったクラクラたぎるとば出していかにゃ駄目です、ね。
そこに、初めてですよ、本当のくず湯の味わいと言うものが、和賀心と言うことは同じ事なの言う事は、だーれだって、天地書附、金光様の信心をしよる、それこそ何万の信者がです、毎日唱えとるですもん、ね、生神金光大神天地金乃神一心に願えおかげはわが心にあるというのを一遍、二編も唱いよるとじゃもん、そうでしょうが、御祈念のたんびに、ね。
だから、和賀心と言うのはそのくず湯、それと同じことなん、だから、それにです、熱をかけるかかけないかということの熱の度合いがです、ね、本当のくず湯をたらしめるのであり、本当のおかげは和賀心にありと仰せられるそのおかげに繋がるのである。
本当のくず湯でもない、まだ、なんちうですか、ただドロドロなっだけんとば飲んで、なるほどちった甘かね、やっぱくず湯の味がしよるぐらいなことではいけないちうか、ね、本当のくず湯を頂かなければいけない、それを、今日は、私は本当の有り難い、いわゆる、真に有り難いとこう申しました。ね、その真に有り難いと言うことが分かったらです、もう絶対温か湯だんかけられんちうことになる、これはもう、いよいよ高められていくばっかり、なぜって、それには必ず和賀心に伴う所のまだ知らなかった道の世界があるからなんです、ね、おかげはそれにまた伴うて来るからなのです、ね。
今、合楽で言われておる、とにかく、和賀心時代、和賀心運動に参加させよう、させて頂こうと、ね、それも、時々どん言うことじゃでけん、いうなら、寝ても覚めても和賀心ね、その和賀心と言うものはそうみんな頂けるもんじゃないけれども、和賀心を頂かなければならんと言う思いをね、いつももっとかなければならんと、ね、イライラしよる時には和賀心のない証拠、どうか、( ? )思う時は和賀心のない証拠と例えば思うて、これじゃーいかん、これじゃいかんと和賀心をいよいよ追求していこうというのである、ね、。
真に有り難いと思う心すぐにみかげの始めと言うことをです、まあ、いろいろな信心の程度で、いうならば、ただお話を頂きや、はぁー有り難かったというのも真に有り難いと言うことになりましょう。ね、本当に金光様の信心の有り難き、月次祭たんびに私共はこうやって参りよるという、それもやっぱ有り難いかもしれません、けれどもですね、それはまだ、いうならば本当のくず湯を飲んでおる人の姿ではないと、ね、金光様の信心がこんなにも有り難いと、有り難い、ね、合楽で今、日にち頂いておる御理解はまた頂けるお話じゃないぞ、今の内に頂いておかなければと有り難く思うておるならば、それが真に有り難いのだというふうに今日私はもうしました、ね。
だから、真に有り難いと思う心すぐにみかげの始めがずうっとついていくのですよ、ね。
私は、今朝から、なんじゃったかね、心、心にかかえじゃなかった、どういう御理解でしたかね、えーと、いうお話を致しました。(笑い)だいたい皆さん分かりなさる、( ? )聞いておる人は分からん、なんじゃったかな、今日は、うん<参拝者にむけて>なんなん、拝み?とがめる!はぁ!とがめる、とがめる、心とがめるということ、ね、心をとがめるという、例えばね、時々どん参ってから心をとがめんごたるなら、こらはちょっとおかしいんですよ今の合楽では、ね、けれども、そのとがめる心があったんではね、おかげにならんと仰る。ね。
だから、自分の心をとがめんぐらいな信心をさせて頂かにゃんいかんのです。ね、今度の庭が出来る場合もそうでしたんですよ。ね、とにかく、今度できの終わったのが、もう私は、いうなら、まあ、見ろうごたるもない、障子でも締め切ってしもうた、もう見ろうごつもない庭になってしまった、ね、だから、梅里先生が来て下さるといいござったけれどもですね、もういいと思いよったけれども、あげん言うて頂きよったから、これはどうでも造り直してもらわにゃいかんと私は思うた。
それから、正義さんでしたか、あの古賀さんでしたか、お話を致しました。それで、あの梅里さんに行ってもらいました、そしたら、昨日、一昨日ですから、17日と16日が空いてちう事であった、ね、それからそれに、まあ、あの、お邪魔しますと言う事でありましたから、まあ、来てもらうことになったんです、どうですか、その前の日はどしゃ降りでした、ね、ところが、また今日もまた丁度日がお湿りだったでしょうが、ね、その、あちらの来て下さろうというその二日間だけがお天気だった。
ところが、いならば、私の人間心がです、これは造り直そうと思うたのだからですね、そこんところで私くしの、いわば、お詫びの信心があった訳ですよ、ね、( ? )という気持ちがあるから、その事を一生懸命、まあ、正義さんに話したり、( ? )さんに話したりした事をです、本当に神様にお詫びをさせて頂いてです、ね、もし御神意、御機感に叶わんものならば梅里さんに都合があっても、出けんなら出けんでもよいという腹を決めさせて頂いたら( ? )ことになった、しかもおお天候の上にもおかげを頂いた、さぁーこれだけは梅里さんがいうておられたが、茶庭だけは、もう石であればどんな石でもいいといわれるのがあちらに、その、だいたいは流儀なんですけれども、茶庭の石でだけはそんな訳にはいかんとこういう、だから、こういうものをよせといてもらわなければならんと言い、さぁー正義さんと、あの、高山さんが、こう、( ? )方から一日がかりで回ったけれども、とうと言われるのはなかった。ある人がこう言う石があるから、これでお気に入りならお供えしようかというのを見たところが、もうこれは、もう最高の石だということになった。それはもう本当に最高の石ですよ、後いつでもいいから、まあ、ご覧になってごらんなさい、はぁー茶庭の手洗いの石っちゃこういうものが本当の理想的なんだということを思われるほどしの石なんです、やはりね。
さぁー、これで私の許されたと言うことが段々許されておる事が分かってきた。ね、御用してくださる方達も、ね、植木はこういう植木がいるからと言うて、植木を買いに行く所が、はぁーあっちの合楽の先生は私が小学校の時の友達じゃち、これをお供えしてくださいちいうてから植木を託ってきた、ね。
石がお供えがなった、ここに一つ燈篭が欲しいっていうよったら、なら、その燈篭は私がおかげを頂こうという人まで出てきた、ね、なるほど、許されて神様がなしござるなあーと言うことが分かったところに、なるほど、梅里さんの力量というものもありましょうけれども、そういう力強い庭がでけた。あんまり皆さんが真心で奉仕されるもんですから、昨日、お弟子さんに梅里先生がいいなさった、今度俺達もたった二日間じゃったけれども、奉仕させていただこうじゃないかと、今度のは金光様へのご奉仕ぞというて言うておられます。
帰りがけに、今度のはお金は頂きません、奉仕させて頂きますからと言うて帰られました。(笑い)ね、いうならば、金を出さんじゃったけん良かったちいう訳じゃなくてですよ、ね。
例えば私共の、例えば、感ながらでばっかり行かん時もあるって、人間心で押してきたり時もあるけれども、そういう時にその事が許されておらなければ駄目だと言う事、ね、その許されておるとろこと言う印がここに、こう、見えてまいりました時にです、ここに生まれてくるのが安心である。また忘れた、心に(笑い)、なんじゃったのう?、あっ!心にとがめない、うん、ほんと覚えとって下さいいっちょ、私がすぐ忘れる(笑い)。ね。
心に、その、とがめるようなことがあってはね、おかげを受けられんと、ですからです、私共が、んなら、そんなら、これで完璧ということは決してないけれどもです、いうなら、和賀心時代だと、もう和賀心、もう今合楽では和賀心は一時でも話す事はでけんと、なら、和賀心を頂けとるわけじゃないけれども、和賀心を頂くための姿勢をいつも持っとかなければ、寝ても覚めても和賀心、和賀心というておるならばです、私はここにとがめる心が生まれてこないです、ね。
それを求め続けておるというんですか、何をするにも、ね、思い出すようじゃ惚れようがうすい、思い出さずには忘れずにというのが、その和賀心をそのような思いで持ち続けなければならないということ、ね、そこから、私は真に有り難いというものが生まれてくる、真に有り難いということが分かってきたら、それこそ、手で拝み、足で拝み、心で拝み、頭で拝み、全身全霊で拝むと言う事になってくる、それが、本当の信心の姿勢である、姿であるということをです、分からせて頂いて、足らないところを詫びていかにゃん、ね、詫びれば許してやりたいのが親心と仰るから、詫びていく謙虚な信心させて頂きながら、どうぞ、足で拝み、手で拝みできるような信心にならせてくださいという願いが必要じゃなかろうかと思うのですよね。
どうぞ、お願い致します。
23日は、いよいよ、御霊様が待ちに待っておられます、御霊様のいうなら、御大祭でございます。ですから、どうぞ、その日は一家をあげての、一つ、お参りであり、ね、玉串をあげられるようなおかげを頂いて欲しいと思います。
教祖様も御霊の、あの世のことはいうなと言うておられます。私もあるやらないやら分からんとも言うておられます。けれどもね、教祖様が仰るように、自分が亡くなったらですよ、ね、来てくれという所に行ってやるといったようなことも仰っておられますから、それはね、分からん世界の事をいうてもみんなが疑ごうたり、色めがねで見たりするから、そう仰っておられるだけのこと。
これは私がはっきりいうこと、ね、私は最近、御霊様に特に言えれる事はね、御霊様の世界、神様の世界にね、教祖生神金光大神がこのように厳然としてお取次ぎになっておられるじゃないかということです。お取次ぎを頂いて、信心の稽古をなされて貴方がたも、そして、今度の23日の御霊様のお祭りには、もうちったマシな姿で遺族の者にお会いができれるおかげをいただかにゃいけませんということ。これは、私はがこの肉眼ではっきりあの世界を見とる、拝んでるとですからね、間違いないです、教祖の神様が神様の世界には丁度こんな格好でもひとっつも変わらぬ、御結界でね、もう厳然としてご奉仕があっておられますです。
だから、あの世は絶対ある、神様の世界がある、段階がたくさんあるけれども、ね、これは、私はもうそこを断言いたします。ですから、この世にも厳然とした、あちらの世界に教祖様のお取次ぎの座があって、お取次ぎくださってあるのであるから、御取次ぎを頂いて、よりもっとマシな御霊の位も頂いて、ね、今度の遺族との、いわば、会わせということにならなければならないということを、まあ、日にち今、御霊様のお祭りを前にしてですね、私は御祈念させて頂いておりますがです。
皆さんもです、ならもうちったマシな信心を頂いてです、ね、御霊様にお会いできるおかげを頂かにゃならん、この23日の月次祭に併せてでございますから、1時からのお祭りですから、どうぞ、お供えやらは出来るだけ一つ真心を込めて、ね、本当にもう、ただ、あの、通りいっぺん、ならちょっとそこから買うてきたちいうごたる、これは買うてきもいいですよ、( ? )、ばってん思いを込めなさいちいうこと、ね、(笑い)そして、もう出来るだけ少しより多いがいいですよ、ね、やっぱみんなに、たくさんな人にごひろうせにゃならんのですから、いうならば。ね。
ですから、もう、こげんなん功徳する時はもうなかですから、ね、ですから、もうここが込み合いますから早めにどうぞお参りをなさって、お供えもなんかもそのつもりで早々におかげを頂かるふうにお願い致します。
どうぞ。
末永静行
2005年4月29日